2006年 5月 25日

筍とあさりの酒蒸し煮


?あさりをよく洗い、フライパンで酒・醤油少々をいれ蒸し、開いたら身をとる。
?筍・シメジを?に入れ 水・砂糖少々も加え、煮る。
?人参・あらめを入れ、醤油・味醂で味を調えながら煮る。



エベレスト登頂に成功したニュージーランド人の両足義足の登山家ら40人が、頂上付近で倒れていた男性を助けず、登山を続行し その男性は酸素不欠乏のため亡くなったという記事が新聞に載っていた。
聖書に これと似ている箇所がある。「山道で強盗に襲われ半殺しにされ倒れていた人を助けた良きサマリヤ人(ルカによる福音書10章25〜37)」の話だ。
自分の命さえ崖っぷちに立たされているという状況がどちらにもあった。8850メートルの山頂付近がどういう過酷な状態なのか私には想像さえできない。
聖書のなかのサマリヤ人も早く逃げないと自分も強盗にやられる危険性があった。(見てみぬふりをして)通り過ぎる人があったことも共通している。
果たして自分だったら どうしたいのか?ということは、すぐ答えがでる。これは信仰をもっている良さだと思う。迷わず 助けたい!
しかし、実際 そういう時 どういうふうな行動ができるのだろうか?ということは その時になってみなければ わからない・・・それが人間の(私の?)弱さでもある。







投稿者: kun - 午後 10:40 | カテゴリ: 魚介類 野菜おかず
コメント

kerokotan:

人は本来誰でも、今まさに橋から落ちそうになっている人を見れば、衝動的に助ける行動がインプットされているという。しかし現代文明は身に懸かる不幸は出来るだけ避けて自分の狭い「心地よさ」を求めることを是としている。「見て見ぬ振り」が白昼堂々と都会の真ん中で鉄筋のない建物が立ち上がることになったり社長が知らないで会社が悪いことをするなどということを許す。無宗教と言う宗教ほどこまるものはないのかもしれませんね。
(2006年 5月 26日 午後 07:18)

kun:

>衝動的に助ける行動がインプットされているという

そうなんですか?!自分の命を守ろうとする本能のほうが強いかと思ってました。
今 危機に瀕している人が、自分の連れ合いか 子供か 他人かによっても 助けようとする気持ちは違うんでしょうね。
信仰を持っている人は、人が見ていなくても神様はしっかり見ていると思っています。
子供の教育には 大切なことではないでしょうか〜
(2006年 5月 26日 午後 11:06)

よしひろ:

そのニュースはまだ見てません。
ニュージランドの登山家は帰ってくるまで倒れていた人が死ぬとは思っていなかった可能性もありますね。

しかし、エベレストの登山は極限の世界であると同時にそこへ登る人は、「遊び」なわけです。他人の危険と自分の遊びの間でやはり自分の遊びを犠牲にするべきでしょうね。

これは自分の命を守ろうとする本能の問題ではなく、エゴの問題だと思いましたね。

でも倒れていた人も自分の道楽で山へ行ったわけで、危険も十分承知していたはず。むやみやたらに他人の助けに頼る心もなかったはず。しかしその倒れた人のガイド(シェルパ)はどうしていたのかなぁ?

全て状況が分からないので、正しいことは分かりませんね。

でも皆さんが言われるように私たちは良きサマリア人でありたいですね。
(2006年 5月 27日 午前 02:20)

kun:

次の日 違う新聞に その記事が出ていました。

>他人の助けに頼る心もなかったはず
そうなんですね・・亡くなった人の母親が「自分の命は 自分で守らなくてはいけないということは本人も承知していたのだから 救助されなかったことを責める気持ちはない」と言っていたということが載っていました。
少し驚きました(ーー;)
よしひろさんが言われるとおり、状況が全て わからないなかでは なんとも言えない部分がありますね。
家族で この話題であ〜だ こ〜だと言い合いましたが ネットでも話し考えることができたことは良かったと思います。

>私たちは良きサマリア人でありたいですね
「良きサマリヤ人」となること・・それが自分を大切にすることにもつながりますね。
(2006年 5月 28日 午前 07:21)

k:

本人も、そのお母さんも覚悟の上での行為で立派だと思います。私自身は「良きサマリア人」となることを心がげたいと思います。
(2006年 5月 28日 午前 07:43)

よしひろ:

その死んだ人とよく似た経験を昔してるんです。もう45年ほど前かな(私の話は全てむちゃくちゃ古い)、まだ20ぐらいのとき初めてリーダーで冬山へ行ったんです。かなりひどい状況に直面して、側に居た他のパーティーに助けのまなざしを送ったんです(助けてくれとは言いませんでしたが)、しかし厳しい眼差しを受けました。そのとき以来山に登るときの心構えが変わりました。

でも最後にダメだと思ったら「助けてください」と言ったと思うし、また他人がそう言えば私は助けたと思います。
(2006年 5月 28日 午前 11:39)

kun:

>kさん
私が その人の母親だったら・・・と考えました。
そういうふうに言うかもしれませんが、五分五分で心のなかでは 助けてあげてほしかったという気持ちがあると思いました。
「良きサマリア人」の話を知っていて そのことから学ぶ真理を理解しているだけでも 実際にそういうことに遭遇したとき 違うのかもしれませんね。


>よしひろさん
よしひろさんの山の写真を見ると 随分高いところから 撮っているものも多いので 本格的だなあと思ってましたが、そんな経験もされてるんですね・・・・
昔読んだ「銀嶺の人」(新田次郎著)を思い出します。自分もいっしょに登っているかのようにドキドキしながら読んだ記憶があります。
「助けてください」と言う場合 どういうふうにしてくれることを期待するのでしょう・・・歩けないとき 酸素 食べ物 薬などをわけてあげる?下まで おぶって?なにかに乗せて?つるしておろす?・・・そういうことは可能なのですか?
夏の富士山にも登ったことがないので よくわかりません。
(2006年 5月 29日 午前 10:50)