2007年 2月 06日

焼きうどん


玉ネギや畑の野菜を入れて〜♪
オリーブオイルで炒め、醤油・酒・味醂少々を入れ味付けし さらに炒める。


 
ルーテル栄光教会”風はどこから”より


≪日本人は無宗教ではありません。
日本人はみな、テレビ教の信者です。≫
という言葉を、以前どこかで耳にしました。
なるほど、その言葉の意味がよく分かりました。

周知のとおり、テレビの情報番組が、
「納豆を朝晩食べるとやせる」と言った途端、
翌日から食品売り場の納豆が
全国各地で売切れてしまいました。
テレビ教が、日本で一番信徒数が多く、
また絶大な力を世に発揮している宗教
であることが証明されました。

情けないですが、
日本福音ルーテル教会の牧師が何か言っても、
こんなに世の中を動かせません。
その後、これが捏造された情報だったということが判明し、
テレビ教の信者たちの、
疑いを持つことさえ知らない純粋な信仰が、
より鮮明に示されました。

そうです。
これが信仰です。
〜が言ったことは真理。
だから疑うことなど微塵もなく従う・・・。 
「〜」に入る言葉は何ですか。
それがあなたにとっての神です。

テレビ教の信者に負けないくらい、
私たちの神の言葉をよく聞き、
疑うことなくそれを信じ、
次の日にはすぐに行動に移す。
そういう信仰があれば、
山でも動かせるのでしょう。


投稿者: kun - 午後 10:01 | カテゴリ: 麺類
コメント

よしひろ:

日本で神社へ行くと、多くの人が心から手を合わせて祈っています。日本人は宗教心がないのでなく、何かにすがりたい気持ちを持っている人が多いのは事実ですね。

ところがキリスト教も仏教も宗教家はそれらの求めに応じていないのが現実ではないでしょうか。
(2007年 2月 07日 午前 01:57)

kun:

よしひろさん
>何かにすがりたい気持ちを持っている人が多い

客観的に 外から ごらんになって そう思われますか?・・・
やっぱり・・ですよね〜と言う感じです。

このころだと合格祈願のニュースが流れますが、教会やお寺には 押し寄せません。
不思議です。。。
(2007年 2月 08日 午後 09:36)

かばんもち:

日本人の求めに応じるって、どういうことなのでしょう。私も日本人ですが、・・。一ヶ月も前のことですが、よしひろさんに、ちょっと聞いてみたいです。
(2007年 3月 22日 午前 07:54)

kun:

かばんもちさん
カナダとの違いなど 教えてもらえたら きっと 参考になりますよね。

きっと そのうち お時間ができたら 登場してくださることでしょう。
(2007年 3月 23日 午後 07:51)

よしひろ:

私の悪い癖で、つい軽はずみにホイと書き込んでしまう。今回の書き込みも特別熟考した結果ではありません。しかしまんざらでたらめを書いたつもりもありません。「かばん持ちさん」からコメントを頂、少し追加書き込みをします。これはあくまで私が「そうでは無いか?」と思うだけで、特に如何なる人も非難したり攻撃したりするつもりは毛頭ありません。

日本もカナダもほぼ同じですが迷える人は多いです。特に若い人に多い。私だって中学生、高校生のときは疑問だらけ、迷いに迷ってました。そしてまた寂しい人も多い、愛情を求めている人も多い、価値観を求めている人も多い。

それらの人たちに応えられるのは親であり教師であり友人であったりします。しかしそれらから助けを求められないで孤独な人もまた多い。迷える羊だと思います。そんな人々に宗教界は応えられる立場にある。

最近私は日本に帰るたびに仏教式葬式や法事に出席する機会が何度かありました。また実家は仏教なので月に一度仏僧がお参りに来ます。いずれもお経などを読まれ、また時には私も一緒にお経を読まされます。私にとってお経の内容はさっぱり分からない。どれだけの人がこのお経を理解しているのかと僧に質問してみました。僧の答えは「そんなの普通の人には分かりますかいな」と言う答えにもうびっくりしました。また葬儀や法事のときにほとんど仏教の「救いについて」の話は無い。

数度短い説法を聞いたことがあります。私は前向きに聞こうと努力しましたが、私の心に残る話は聞けませんでした。

このことから私は仏教会は救いの教えを述べ伝えると言う義務をほぼあきらめている。少なくとも私が何度か会った僧はそのようでした。だから悩める人が多いと言うことも、自分たちがその人たちに何かをしないといけないと言う義務感が私には感じられないのです。

一方キリスト教のことを考えて見ますと、キリスト教では毎週の礼拝では説教がされています。とても良い説教が多いです。魂の救いについて、また価値観について牧師の方は話されている努力を感じます。

しかしキリスト教について私が考える問題点は、キリスト教会は一般的に敷居が高い。外部の人間が非常に入っていきにくい。これは一般的にキリスト教でなくても仲良しクラブには外の人間は入りにくい。よく言われるように幼児の公園遊びでも外部の人間は入りにくいですね。しかし教会の場合はそれを乗り越えて特別に努力して外部の人間に敷居を低くする努力が必要ではないでしょうか。

よって迷える人が教会の門の前まで来ても入りにくいと言うことが起こっているのではないかと想像します。

日本の社会では人口の約10%ぐらいはキリスト教系の学校などの影響でキリスト教に非常に共感している人が多いとの事ですね。しかしそれらの人と教会の中側には超え難い壁があるとするなら残念ですね。

以上あまり言い過ぎていないといいのですが。
またどなたかを傷つける意図は全くありませんので不愉快に思われた方が居られたら許してください。
(2007年 3月 24日 午前 11:45)

かばんもち:

うわあ、それこそこちらも、なんとなくどんなことかな、ということで書き送ってみたら、こんなにたくさん書いてくれて。よしひろさん、ありがとうございます。嬉しいです。
日本の仏教は、はじめから今のようだったのでしょうかねえ。仏教の方々の姿勢によって、日本人は、宗教というのは冠婚葬祭のときにお世話になるものと思い込んでしまっている気もします。いつでも気軽に門を叩くところではなくなっている。身近でもないし。
そういう日本人に答える宗教・・・。答えると言うか、開かれると言うか。そういう宗教改革が、日本でもいつか起こるべきなのかな。ないならないでもいいような気もしますが。
ただよしひろさんが言っておられるような、悩みや孤独のどん底に落ちた時は、敷居がどうのこうのでなく、門を叩くかもしれません。
ううんなんだかまとまりません。また何か書いたら、よしひろさん、kunさん答えてください。ありがとうございました。
(2007年 3月 24日 午後 10:20)

kun:

よしひろさん
いろいろと気をつかっていただきながら 丁寧に 書いてくださって ありがとうございます。
敷居が高いとしたら〜低くするには・・・どうしたらいいんでしょうか?・・高かった敷居を越えて教会に入ってきた(そうさせたものはなんだったのでしょうか) その原点にかえって振り返りながら、クリスチャンみんなで考えなければならない問題だと思います。
自分も含めそれぞれ 自分の信仰を維持していくのにいっぱいいっぱいで余裕がない感じはします。


かばんもちさん
コメントを書いていただいたおかげでそのまま 軽く流してしまわず 考えることができて 良かったです。
ありがとうございました。
ノンクリスチャンには、クリスチャンとはこういう人たち〜とタイプを描いている人が多いと思います。
クリスチャンって どんな考えをもった人たちなのか?がわかれば、敷居は少し低く感じられるかもしれません。
かばんもちさんは クリスチャンとお見受けしました。
これからも 是非 登場して いろいろと考えをお聞かせください。m(__)mペコ 
(2007年 3月 24日 午後 11:46)