2013年 3月 27日

トノサマガエル?



 クロとケンの視線の先は〜〜〜カエル!
畑の土をおこしていたら、出てきた。
ねぼけまなこで〜動きがのろく、遊ぶには ちょうど良い。
捕まえられ 背中をなでられたり 話しかけられたり。
カエルにとっては とんだ災難!?
クロもパクッとかみつきそうだった。
 


投稿者: kun - 午後 08:46 | コメント | 固定リンク

2013年 3月 22日

人面大根



 無農薬なので、虫がよってたかって食べて 創作。

 

 近所の、母と同年齢の人が 母より数日前に亡くなった。
独身の息子さんとの二人暮らしだった。
道でその息子さんと会った時、「寂しいですね」と言うと、顔をぐちゃぐちゃにして、
涙を流し 会話ができないほど泣いていた。
 昨年の暮れ入院するまで、歩いて買い物に出かける姿をよく見かけたし、入院する
前日には シチューを作ってくれたと言っていたから、突然のことで 心の準備ができて
いなかったのだと思う。
 父が亡くなった時、母も私もそんな状態だった。 私には一緒にいる家族がいたから
救われたけれど、母は一人暮らしになり どんなに寂しかったか・・・私たち子供が時々
行っても、心の空洞は埋められないほどだったと思う。
今 父と再会して 喜んでいるだろうなと思うと、母が亡くなった寂しさは和らぐ。

  

投稿者: kun - 午前 06:02 | コメント | 固定リンク

2013年 3月 21日

母は歌が好きだった♪

     

 母は、若い頃 歌手になりたかったのだと聞いたことがある。
その当時 歌手は、今のようにまともな?職業とは言えなかったようで、周りから反対
されて あきらめたのだそうだ。
 この写真のように合唱団に所属して 歌っている写真や、一人で歌っているものなど
写真を整理していたら、何枚も見つかった。
今でも、地元の盆踊りのとき 決まってかけられる”宍原音頭”の歌は、母が歌っている。
 子供の頃、母が家事をしながら歌っていると
「母さんは、ほんとに歌がうまいなあ」と ”ほんとに”という所に力を入れて、父はよく
言っていた。
たまに そのあとに、
「おまえは、母さんに似ないで 父さんに似ちゃって かわいそうだ」とも。(-_-;)
 先生について 習っていたということなので、発声の仕方は、腹式で本格的♪
金婚式のお祝い家族旅行の時、宴席でアカペラで歌った ”ここに幸あり” 今も目をとじると
歌声が聞こえてくるようだ。
傘寿のお祝いの時にも、カラオケで何曲か歌っていたが、ほれぼれするような歌声を聞いたのは 
それが最後だった。
 昨年 10月に入院してから、弟がプレゼントした歌集を開いて、母と一緒に 何回か歌ったが、
耳が遠くなっているせいか 音程はくずれ、昔の歌声では 全くなかった。
歌う本人も愉しくないのか、積極的に 歌おうとはせず、切なく 悲しかった。

投稿者: kun - 午前 06:25 | コメント | 固定リンク

2013年 3月 18日

クロも畑で♪



 クロは、よその人が来ても 前のようにほえない。
散歩の時、グイグイ引っ張るので ケンは、ついていけずころんでしまった
こともあったが、今は そういう力もない。
 周りのことに興味を示さなくなっているクロだが、ケンが無邪気に遊ぶ姿を
目で追う。 ケンの声が好きのようだ。




投稿者: kun - 午後 10:22 | コメント | 固定リンク

2013年 3月 09日

クロ昼寝、母永眠



このところ 春のように暖かい。
芝生の部分に寝ればいいのに・・・
黄砂・PM2.5・杉花粉が入り混じった風の中で 昼寝中(~_~;)

 昨日 昼、88歳の誕生日を迎えたばかりの母永眠。
父亡きあと、13年間 一人暮らしだった。
この間 入院したのは今回だけだったから、健康には恵まれていたと思う。
最期の数日は、弟曰く「穏やかな灯火」のようで、静かに消えていった。
 すべてのことで反面教師のような部分も感じていた母だったが、よくよく
今 思えば 自分と五十歩百歩だったかもしれない。
エラそうに 批判したり 反抗したりする資格なんて ひとつもなかったと亡く
なってみると、良い所だけが思い出される。
60歳過ぎてから、琴の師範をとり、教室をいくつも掛け持ちしたり、手打ちそば
教室の講師をしたりと溌剌と頑張っていた母の方が努力家だった。
 かけつけた孫娘たちがハラハラと涙を流している姿を見ると、明るくて優しい
いいおばあちゃんだったなと あらためて思う。

投稿者: kun - 午後 01:39 | コメント(4) | 固定リンク